須坂市地域おこし協力隊の野澤です。
今回は須坂市の木について注目してみた後編です。
前編は以下のリンクからどうぞ!!
須坂市を象徴する木として「ミズナラ」を推したい理由
前回の記事で須坂市の木として「クマスギ」が選定されたことに触れましたが、今回はあえてその当時1票も入らなかった「ミズナラ」を須坂市の木として推します。
それは何故か!?
それを述べていきます。
須坂はかつて製糸業で栄えた「蔵のまち」だった
須坂市在住の方々には言わずもがなですが、須坂はかつて製糸業で栄えた街でした。
その当時の名残が蔵として残っており、須坂市は「蔵のまち」と言うようになったのです。
繭を煮込んで糸にする
繭から糸を作るために、繭を煮込む必要があります。
湯沸かしのためには燃料が必要となりますが、明治25年頃までは薪炭を主燃料としていました。
薪炭とは薪(まき)や炭など「燃料用」として使用する木材の事です。
伐採した木材を手ごろな大きさに加工し、小さくまとめたものです。伐採直後のまま使用すると水分を多く含むため伐採後に割って木材を乾燥させてから使用します。
薪炭材に向いている樹種はコナラ、クヌギ、カシ、サクラ、エノキなどの広葉樹です。
これらの木が生えている林は薪炭林、低林と呼ばれていますが、一般的には「里山」という名で広く知られています。
須坂市においては薪炭は仁礼・高井谷が供給地でした。
仁礼・高井地方の人たちは養蚕業の他に薪炭の供給という形で須坂の製糸業を支えていたのです。
峰の原高原の薪炭林について
と、いうことで先週からの話題は峰の原高原に辿り着くのです。
何故なら峰の原高原は仁礼地区であり、当時の薪炭林(ミズナラ)が今も残っているのです。
菅平高原にもありますが、峰の原高原にも炭窯跡があったり、当時の面影を感じることが出来ます。
昔の人たちは峰の原高原で木を切り、薪や炭を作り、それらを麓の街まで降ろして行ったのです。
蔵のまちを支えたのは「ミズナラ」の木
これらのことを総じると、須坂が製糸業で栄えた当時、燃料として薪炭が用いられていた明治時代、仁礼地区(現・峰の原高原)の薪炭林(ミズナラ)は重要な役割を果たしていた。ということです。
なので、須坂市の木として私は「ミズナラ」を推します。
といっても、今から自分一人の意見で市の木が変わる訳ではないので、心の中に秘めておくより、ブログに書いてみようと思い立った次第でした。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。
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