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須坂市を流れる百々川に魚たちがいない理由を徹底調査!

野澤の煌めき須坂録

先日、ブログにて毎日夕方になると流れる防災行政無線「百々川橋の夕暮れ」について書かせて頂きました。

その中でベースとなった「百々川橋」の歌詞の冒頭、「百々川は、ながれている  魚たち、いないけど

ですが、前回の私はここをスルーしてしまいました。

百々川を知らない人からしたら「なぜ魚がいないのか?」と言うことが気になるはずです。

百々川を見たことがある人なら歌詞の意味が分かりますが、ここで知らない人のためにも焦点を当てるべきでした!猛省!!

と言うことで、今回は百々川になぜ魚がいないのか。と言うことについて書いていきます。

百々川の水はまっ茶色!!

初めて百々川を見た時は驚きました。

温泉街でしか温泉街でしか見たことがないくらい、川がまっ茶色だったのです!

そして川の水辺には生き物や植物が全くない!

そう、生き物がいないのです。なので魚たちもいないのです。

百々川の水質
百々川の水質

百々川が茶色になる理由

結論から言うと、米子硫黄鉱山から滲み出た鉄分の影響です。

上流の米子川も百々川同様に茶色で生物がいません。

ではなぜ鉄分が多く含まれる水が流れ出ているのか、その謎に迫ったぞ!!

須坂市を流れる米子川、百々川、松川などの河川が源を発する北信火山帯に属する火山群は、いずれも硫黄鉱床を有している。硫黄鉱床の露頭あるいは崩壊面からの湧水はいずれも強酸性反応を呈し、水質を汚濁している。これに加えて米子、横手、小串などの硫黄鉱山が古くから開発され、これが鉱毒水に拍車をかけた。 これらの川は「酸川(すがわ)」とよばれ、全国的に見てもこれほど酸川が集中的に分布している所は他に例をみない。松川の場合、PH は3にも達しているが、これら酸川は魚類がまったく生息しない「死の川」になっている。 酸川の水は、飲用水や灌漑用水として長い間利用されてきたが、耕地、作物等に大きな被害を与えた。これが鉱毒問題で、第二次世界大戦後の水道の普及や土地改良事業、覆土事業によって鉱害対策は大幅に進んだ。しかし、酸川の流水を中性化するまでには至っていない。

引用:須坂上水道120年のあゆみ(長野県須坂市水道局)

つまり、百々川(須坂市)生物がいないのは酸性の川だからなのです。

江戸時代に開発された鉱山から流れ出る物質が川に入り酸性の河川となりました。

この酸性の川も製糸業が発展した要因の一つでもあります。←ココ重要!!

酸性の水が水車を守った!

江戸時代、百々川近郊に桑畑が開発されました。

須坂の扇状地形は桑栽培の適地で、風通しの良い千曲川沿岸は特に優れた蚕の卵の生産場所でした。

町では住居兼工場として屋敷内に川を整備し糸を紡ぐ機械の動力として水車が作られました。

これも須坂特有の扇状地形が適していたからでした。このことからも須坂の町は製糸業が発展する場所として理に適っていたと言えます。さらに屋敷内を流れる川は酸性だったため水車の劣化を防いだそうです。

上流の米子川にも行ってみた!

と言うことで百々川上流の米子川にやってきました。

うん、まっ茶色!

米子川 その1
米子川 その2

松川は温泉があるが、米子には…

調べたら酸性となる原理は同じのようで、米子でもこの水を加温すれば素晴らしい温泉が出来るのでは??と言う安易な考えが脳裏に過りました。

九重連山にある「法華院温泉」のように、歩きでしか行けない温泉とかだったら面白いんだけど。

米子硫黄鉱山がキーワードだぞ!

と言うことで米子硫黄鉱山についても調べていました。

米子大瀑布を望む位置に出来たこの場所は調べてみたらすごい集落があったことが分かりました。

米子鉱山(よなここうざん)は、長野県須坂市でかつて操業していた硫黄などの鉱山。1743年(寛保3年)に、米子村の竹前氏によって本格的な採掘が始められた。

1898年(明治31年)に須坂硫黄会社が竹前氏から鉱山経営権を受け継いだ後、数回の所有者変更を経て中外鉱業株式会社が1934年に買収した。硫黄のほかにろう石、褐鉄鉱なども産出した。戦前は軍事用の火薬となる硫黄の需要が高く、最盛期には月産1,200トンに達し、鉱山関係者1,500人が生活していた。鉱山から須坂駅までは全長14kmに及ぶ索道(ロープウェイ)が設けられ、集落には共同浴場、学校、映画館なども建てられた。

1960年に硫黄の採掘が終わり、1973年に全面閉山。付近には米子大瀑布がある。

引用:wikipedia>米子鉱山

峰の原高原より多い1,500人が暮らして須坂駅まで14kmのロープーウェイがあったとは!!

大涌谷の黒たまご専用ロープウェイもビックリですよ!

大涌谷の黒卵専用ロープウェイ
大涌谷の黒たまご専用ロープウェイ

新潟県新発田市との関係性

享保年間(1716~1735)、米子村(現須坂市米子町)の竹前権兵衛・小八郎兄弟は、幕府に良質な硫黄を売り、その資金を用いて新潟県新発田市紫雲寺地区(現紫雲寺潟)の一大干拓事業を行い、同所に米子新田を開きました。

このことから現在、須坂市と新発田市は姉妹都市の提携を結んでいます。

新潟県新発田市と姉妹都市になっていたのは米子硫黄鉱山のおかげだったのですね!!

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