須坂市地域おこし協力隊の北です。
今回のブログは以前お伝えした1/29~2/4の能登半島地震による石川県羽咋市への「災害派遣」活動をお伝えします。
石川県羽咋市
石川県羽咋市は金沢市から能登方面へ約40kmのところにある、人口2万弱の町です。
石川県へ観光に来た方は実はだいたいこの羽咋市に立ち寄っているのではないでしょうか?
羽咋市には千里浜なぎさドライブウェイという日本で唯一車とバイクが走れる砂浜があります。私も何かに悩んだときはよくここに来て、ただ海を見つめてました。懐かしい。
今回は砂浜は走ることが出来ませんでしたが、また普通に走れる日が来たら嬉しいですね!
災害派遣「チーム長野」
今回、私はチーム長野の一員として羽咋市運動公園の災害ごみ集積場に派遣されました。
構成は長野市2名、南木曾町2名、千曲市2名、高山村1名、須坂市3名の合計10名。と現地には羽咋市の姉妹都市である藤岡市の方も来られていました。
1/29~2/4の期間、地元石川県の産廃処理の資格のある業者が中心となり構成された「石循環協」の羽咋市中心のメンバーの方と共に作業をさせて頂きました。
この集積場では災害ゴミを仕分けして分別する作業を行います。
とは言っても災害ゴミなので小さな仕分けではなく、大型家電や材木、瓦、ガラス、金属ゴミなどなどどちらかといえば大型のものが多く肉体労働がメインでした。
被災を受けた福祉施設ではほとんどの家電(エアコン、室外機など)が被災して、廃棄物として運ばれてくるなど、被害の深刻さが伝わってきました。
他にも多かったのはテレビでテレビは見た目では使えそうでも、倒れた衝撃で画面が点灯しなくなることがあるそうです。
また冷蔵庫も転倒した衝撃で温風しか出なくなってしまうなど、見た目にはわかりにくい破損が起こるとのことでした。
他にも沢山の瓦やガラス、陶器など・・・毎日毎日運ばれてくるこの災害ゴミは一体いつ落ち着くのだろうか・・・そんな毎日でした。
石循環協の方には家が被災にあって、まだ片付けが終えてない状況で週末仕事休みの日に片付けを実施し、平日は出勤するというハードな日々を送る方もいました。
宿泊場所 国立能登青年自然の家
小学校の時に宿泊して以来、まさかの20数年ぶりにここに泊まることになるとは・・・当時は夜中までクラスの女子の話で男同士盛り上がったのを覚えています(笑)
今回はそんな思い出の場所の災害支援。
初日の様子ですが、先ほどの10名に長野県職員の2名が加わり12名で1部屋を1週間過ごします。いきなりデスクワークから肉体労働になったのでさすがに私も疲れましたし、雰囲気的に最終日までメンバーもほとんど何も会話しませんでした。
施設としてはインフラ関係は整っていたので、特に不便を強いられることもありませんでした。浴場は一般の断水された家庭に開放もされていました。
また、被災した羽咋高校(市内の進学校)も液状化などで校舎が使えないため、3年生の生徒達が当施設で勉学に励んでいました。2年生も廃校した校舎を使うなど、廃校した校舎などが活躍している事例もあり、取り壊すばかりではなく、普段からこのような災害時には必要な施設というのも見極めて残していくことも必要かもしれないと感じました。
羽咋市 町の状況
最初、町について走った時は被害状況が全く見えませんでした。
メイン通りの方は普通に車も走れる状況でした。
しかし、メイン通りから少し入ると今回の地震の特徴である「隆起」や「液状化」が起きたエリアが複数あり、その周辺は今までに見たことがないような光景が広がっていました。
死者や全壊になった建物が少ないことで被害は目立ちにくく「大したことない」と判断されがちですが・・・決してそのようなことは無いことが、少しでも皆様に伝われば幸いです。
ここは羽咋市のほんの一部です。
私達も通勤路で見えた範囲だけなので、もっと他にも大きな被害はあったかもしれません。この後、この町にどうやって住むんだろう。。。どうやって復興していくんだろう。。。ほんの一部の被災地ですらそう感じさせました。
また帰り際に見た河北郡内灘町では更に広範囲にわたる隆起や液状化の被害が出ていました。
私達に出来ることは何だろう・・・
災害派遣最終日 前夜
私たちは国立の施設に宿泊していましたが、ニュースなどでも観光客激減による経済ダメージが大きいというニュースを見てもっと災害地何か貢献しなければいけない。
と思い、最終日だけ12名のメンバーで地元のお好み焼き屋(被災地すぐ)で会食の機会を作りました。
その場で初めて自己紹介し(最終日前夜)初めてなぜこの災害派遣に立候補したのか?など会話をさせて頂きました。
地元石川県の人間として、これだけの方がこんなにも能登半島地震の被災地に貢献したい!と思ってくれることに感動しました。
またお好み焼き屋のおばちゃんも当時の状況をいろいろと教えて頂き、お店も断層から外れていたのか大きな被害がなく営業できていることを、本当に感謝しながら語ってくれたのが印象的でした。
最終日前夜ともあり、メンバーも少し緊張がほぐれた様子でした。今までほとんど会話もせず、名前も知らず、無言で毎日を過ごしていましたが、この1日でとても打ち解けたように思います。
さいごに。私達が出来る事。
東日本大震災の教訓を生かして日本は大きく変わったと思います。CMの自粛や飲み会の自粛が原因で経済が停滞したあの頃と比べれば、だいぶ国民の皆さんの動きが変わったと思います。
現地の被災された方ともお話しましたが、大切なのは皆さんが”普通の生活”をすること。
これだけで被災地の経済は回ります。
遠く離れた地に住む方も含めて「普通の生活をする」ことで、この能登半島の人や産業にお金が流れます。これは絶対に止めてはいけないと思うんです。直接では無いにしても、そこで動いたお金が企業などを通して「支援金」として繋がる可能性もあります。
ボランティアを受け入れる状態が整っていない今、まずは「普通に生活をする」ことを心掛けて、しっかりと経済を回していくこと、そして、もし生活に少し余裕のある方は「義援金」や「募金」を積極的に行ってほしいです。
私も今回の災害派遣を1回きりにせずに、継続して能登半島に対して何か活動し、発信し続けていきたいなと思っています。
そこに派手な動きは必要ないし、皆さんの生活を崩さない範囲で1人1人が生活をすれば必ず、復興に繋がっていくと信じています。その中で能登半島を想い生活してくれればそれ以上に嬉しいことはありません。
長野県全体(チーム長野として)の災害支援への動きにはいろいろと感じたところはありましたが・・・須坂市の一員としてこのように派遣させて頂いたことに感謝しております。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
被災地の皆さん、身体には十分に気を付けてお過ごしください。
のーす
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